
「暮らし」にかける時間が長いほど幸せを感じる。合理性を追求した会社経営をしていたかつての自分が聞いたら耳を疑うような逆説的なコンセプトだ。しかし、体調を崩すまで働いて、生き方を見直した今だからこそ、なんら逆説的ではなく、とても本質的なありように思える。
昨年末、徳積財団の野見山広明さんにお招きいただいて、初めて聴福庵を訪れた。初訪問にもかかわらず、「ただいま」とでも言いたくなるような懐かしさを覚える家の佇まい。人の暮らしの営みが長年に渡り蓄積してきたことを感じさせる落ち着きある空間。ホッとするような安心感が、「そと」から「うち」に入ったことを実感させる。それらのいくつもの要素が渾然一体となって緻密な織物のような穏やかな秩序を成立させている。
まるで神社かお寺にいるみたいだ。それが私の率直な感想だった。年月を経ることでしか生み出せないもの。時間の魔法とでも言おうか。後日参加した聴福庵での仙人クラブのイベントでは、参加者皆さん朗らかな笑顔で、リラックスした自然体で過ごされているようにお見受けした。この場で生みだされる体験や出会いには本質が宿るに違いない。

聴福庵での私の体験のハイライトは、年末の煤払いだ。年の瀬の聴福庵の台所には、至る所に煤がたまっていた。この煤の蓄積の分、人の営みがそこにあった。カマドはその都度、火を宿し、温かい熱を提供してきた。多くの同世代と同じく、私にはカマドがある家で暮らした経験がない。現代的な住居の掃除であれば、塵や埃を掃除機で吸引して終わりである。しかし、煤は中々落ちない。雑巾を濡らして拭く。すぐに真っ黒になる。洗って、また拭く。その繰り返し。最初は途方もない作業のように思えたが、気づけば、雑巾掛けに没頭していた。


聴福庵での体験以前、掃除が好きかを問われたら、好きでも嫌いでもないと答えただろう。あるいは、好きでも嫌いでもないが、掃除した後に綺麗になるのは心地よいという回答だろうか。聴福庵での煤払い体験を経て、その意識が一変した。掃除の結果だけでなく、掃除という行為そのものが好きになった。心を込めて、モノを拭く。その何とも言えない幸福感。感謝を込めて、モノを磨く。自分自身を磨いているような実感を伴う清々しさ。そんな行為が、とても豊かで、充足感に満たされる。
煤払いを終えると、カマドを中心としたその空間はとても喜んでいるように見えた。とても輝いているように見えた。ただの自分の心の反映かもしれない。どちらでもいい。これこそが地に足の着いた、人間らしい豊かな営みだという実感がそこにあった。その実感を共有できる仲間と共に、談笑しながら楽しい時間を過ごせたことも、心の豊かさを増幅させた。

豊かさとは一体何だろう。合理性や経済性を追求した「現代的」な生活の先にある未来に、聴福庵での体験に象徴される人間らしさ・自分らしさを実感する「暮らし」が失われてしまうのであれば、私たちは立ち止まって再考する必要がありそうだ。工場で大量生産されたモノに囲まれる生活が、没個性的で代替の効く効率性をもたらすのであれば、そんな生活を送る人もまた、そのような機械性に埋没するように思う。
私たちや未来を生きる子供たちが、安心して自分らしさを発揮できる場をつくるためには、時間をかけてモノやコトと向き合い、丁寧に暮らしを重ねていくことだ。自分が暮らす空間・環境を大切につくっていくことが、そこに集う人々を大切にすることに他ならない。そして、その想いは時間を越えて未来へと継承されていく。聴福庵での体験は、時間と人の営みだけが生み出せる普遍的な豊かさを思い出させてくれた。








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