五感を研ぎ澄まし、心身が整う『場』は、今も創造中 -島村菜津

2023/07/28

「聴福庵」は、旧長崎街道に面する築150年の古民家である。かつて炭鉱の町として日本を支えた飯塚市が誇る史跡、歌人の柳原白蓮が嫁いだ炭鉱王、伊藤伝右衛門の邸宅は、その真正面である。そんな大事な場所に立っていた民家が空き家になり、だんだんと朽ちていくのを残念に思った野見山さんが、沈んだ柱を起こし、壁も柿渋で磨きあげ、丁寧に改修したものだ。最初に泊めていただいたその晩に、私は、その風情にすっかり魅せられてしまった。庭の手掘りの井戸の存在感だろうか、それとも大きな漬け物樽を再利用したお風呂の効能だろうか、そこに居るだけで何とも癒される場なのだ。

もう一つの魅力は、命のぬくもりを伝える炭火料理と窯炊きの米、地元の無農薬の野菜にこだわった食事。20年以上前から、東京の社員たちと「むかしの田んぼ」と名づけた千葉県の自然栽培の田に通っているという野見山さんは、今、故郷の飯塚で絶滅しかけた在来の堀池高菜の保存に力を注いでいる。もう、その種取りをしているのは、野見山さん一人で小ぶりだが、旨みが深いこの堀池高菜を、自ら山の畑で守りながら、地域の人たちと協力し生産者を増やし、故郷である飯塚市の名産として復活できないかと考えている。

山や湧き水とつながった美しい「場」や「家」を通じて、日本人の心は甦生できる、と野見山さんは考えている。言う。都会のオフィスで忙しく働く人たちに、本物の暮らしを通じて、五感で味わい尽くし、心身が整うような経験ができる「場」を創りたい。そして、時代を引っ張っていくような職場で働く人々が、そんな「場」を通じて、新しい循環型社会の雛形を体験することで、環境の世紀に、次世代のための希望あるヴィジョンを抱いて欲しい、そんな願いが詰まった場である。

しかも野見山さんは、九州の霊峰、英彦山の宿坊を再生し、その精神文化を思い起こそうと呼びかけている一人でもある。何と江戸末期の英彦山には神と仏を祀る三千人の修験者が暮らし、八百もの宿坊があったという。それが明治の修験道禁止令によって山伏文化は消え、私たちは、その見えない精神文化を忘却して久しい。

そんなわけで、福岡育ちの私には、飯塚市に生まれた「聴福庵」を中心とする古民家や宿坊再生の新たな「場」は、ただただありがたく、誇らしいパワースポットなのである。

「徳の循環と祈りと暮らしフルネス」 -全早紀

2023/07/28

まさしく、徳、循環、祈り、暮らし、マインドフルネス。この単語たちと出逢い始めた頃、わたしは明らかに人生の転換期にありました。

どれかひとつだけではなく、全てが全てに繋がっている。さて、その理解にはひとつひとつの実感と納得があるかどうか。これは、大切な実体験や、想いの具現化をやり続けることで真にこの単語たちの中にある真髄が身に染みていくのだと感じています。

そんな中、徳積財団の行われる活動にはその真髄がまざまざと映し出されていました。こんな場所があるのか!という衝撃と共に、ここに集まる方々の在り方にあえて言う言葉も必要ないのではないかと。

そう思いながらも、これから出逢うべくして出逢う皆様と繋がっていく未来の景色に向けて、わたしなりに言葉を残させて頂きます。

祈り舞う。その場を与えてくださった立春。このような働きをさせて頂いた時はもちろん、お米を自然農で育てたり、守静坊のお掃除をしたり、滝行を共にさせて頂いたり。とても特別で、とても自然なことなのだといつも不思議な感覚になります。このように暮らしていたであろうタイムスリップ感と、未来の暮らしを体験しているような新しい感覚です。

今思うと、それは祈りが届き続けているようなその循環の中に身を置いているということ。はたして日常でそのような暮らしができているだろうか?こんな問いがうまれてくる気づきを感謝して受け入れる。そして、この暮らしや循環が遠い昔から遥かな未来まで祈り届くのだと思わざるをえない程、心に響いてくる。そんな響きがわたしの人生に届いてきてより一層この豊かさにありがたい徳を感じます。ものが沢山あるとか、良い人がいるとかそういうことではなくて、このような場所にどんな自分で在り続けるかということ。

時を忘れて祈り、體をもって丁寧に暮らす。徳積財団のこの場にはそんな愛の循環が滞ることなく在り続けています。

いつでも出逢えるし、今しか出逢えない。そんなあなたと、そんなわたしと出逢えるこの場がどうかどうか未来へ届きますように。

 

「シンプルな暮らしや、本当の豊かさを味わえる」-岩根修一

2023/07/07

元々聴福庵に訪れたのは、先輩に「お前が好きそうな場所があるぞ」と誘われたことがキッカケでした。当時ちょっとサラリーマンに疲れていて、それを見ていた先輩がふと声をかけてくれたのです。
行って、はっと驚きました。
「シンプルで丁寧な暮らし」
それを行うんだというごく自然な覚悟が見えた気がしました。
現代って「覚悟」のような、少し大げさな言葉を使わないと丁寧な暮らしってしにくくなっているんですね。私の居る業界があくせくしすぎているのかな。
聴福庵では長めの説明をされましたが、そんな説明よりなにより、あの空間で何かを感じることが第一だと思います。
七輪で美味しいお酒と肴を前に、わざわざ暮らしにくくしてきた「便利さ」を俯瞰して見てみては如何でしょうか?

少なくとも私にはそれが必要でした。
今でもたまに遊びに行って畳に寝転んでいます。こんなワガママを許してくれる野見山さんたちには感謝しきりです。
大量に物を揃えなくても、修繕して繰り返し使うことで物に魂を吹き込んでいく感覚。自然のものを人間が頑張って考え抜いて「ちょっと拝借して形を人間用に作り直す」という感覚。それを、代々引き継いでいくという感覚。
その土台の上にWi-Fiがあり、機器があり、それも上手く使いこなしつつ手入れした道具と共に土や水や火と接する。
現代の人間らしい豊かな生き方とはこのようなことではないかと思いました。
もし「人間関係に疲れたな」「機械は捨てられないけれど何か血や息吹の通った空間に行きたいな」とか、そんなふうに思う方がいたら一度訪ねてみるのも良いかと思いますよ。
蕎麦の実の枕を借りてゴロンと寝転んでください。
たぶん、3時間後にはハイパーな自分になっているかと思います。
すり減らす多忙からゆとりある忙しさ。
あの時から、同じ時間の無さでも、余裕を作る感覚を身につけた気がします。
「喫茶して行け」
いつも心でふとこの言葉を思い出しながらことに当たっています。
あのような場を設えて頂き、良いタイミングでご縁を頂き本当に感謝しております。ありがとうございます。これからもよろしくお願いします。

「遺跡などのお手入れをする喜び、繋がる仕合せの体験」-田代一生

2023/07/07

ご縁があり、地元に残る“遺跡のお手入れ”に参加させて頂いております。
私にとっては、自身を成長させてくれる場であり、先祖や先人たちに思いをはせ、後世に歴史をつなぐ役割を感じさせてくれる場であるとともに、人との新たな出会いの場でもあります。

私自身は、10年間の心の病を経験する中で、最近ようやく自分を見つめ直し、妻や友達・同僚などの横軸としての関係とともに、縦軸である親や子、そして先祖また先人たちとの関係性の中で今の自分が生かされていることに気づき、病を克服することができました。
古代からつながる歴史を改めて学び直すことが、病からの回復の一助ともなりました。
今の私にとって、このような活動に参加させてもらえることは、先人たちとのつながりを感じ、生きる意味を感じさせてくれる大切な場と時間となっています。

日本は、現在、戦後から高度成長期を経て経済・物質的文明の停滞期に入り、家族構成も核家族化し、地域のコミュニティも形骸化する一方、ネットの普及により新たなコミュニケーション手段が増え、ネットでの中の繋がりが出来ていくなど、社会形態も多く変化しています。
また、利便性の高いデジタル社会に向かう動きとは別に、自然回帰の動きも大きくなっています。
まさに現在が大きな変化のただ中であり、新しい関係性の世界への重要な岐路に立っているのだと思います。そして、今後は、物質的豊さと精神的豊さの融合された世界へと向かっていくように感じています。
縄文から連なる祭祀や精神性の高さ・自然との共生力など、各地域に残る遺跡・伝承を紐解くことが、精神的豊かさへの追及のヒントになるかもしれません。
 
古代より先人たちは、長い時間をかけ、自然の中で、多くの失敗を重ねながら、科学ではなく実体験をもとに、生きる知恵や伝承を作り上げてきました。
現在の私たちは科学が進み、先人たちよりも遥かに物事を理解しているように錯覚し生活していますが、現代の科学では、宇宙にしても全体の内、物質約5%しか理解できていませんし、生命や生物、歴史の謎は多く残ったままです。
先人たちの知恵や伝承は、今は非科学的に見えるかもしれませんが、将来、科学がより進歩した時に、初めて理にかなっていたものとして、理解されるものが多いように感じます。
このような先人たちの残してくれた知恵や伝承・遺跡は、一度でも失うと復元は不可能となります。
つまり、今残されているものを子孫につなげていくことが、今を生きる私たちの重要な役割だと思っています。これが私の“遺跡のお手入れ”に共感し、参加している理由の一つです。
残されている遺跡の場所についても、鉱脈上にあったり、津波の到達地点といった目印であったり、天文や自然の観察の中から重要な意味を持って、そこに配置されている所も多く、今の科学では理由が分からなくとも、将来の人々が、物質的もしくは精神的な力を手に入れるための重要な場所なのかも知れません。
個人的に好きな歴史分野でも、素人でもネットで古代文献を読めるようになった今、地域に残された遺跡や伝承が重要な情報となり、多くの人に共有されることにより、謎に満ちた古代史が解明されていくように思います。

この“遺跡のお手入れ”に参加して、思い出されるのが、世界に誇る生物学者であり民俗学者である“南方熊楠”です。日本の大きな変革期であった明治時代に、政策により多くの寺社が整理され、同時に鎮守の森も無くなっていく中、自身の研究のための貴重な時間を犠牲にしてまでも、運動を繰り広げ、熊野の歴史と自然・生態系を守り、そして、現在、世界遺産ともなり、私たちに大きな財産として残してくれています。
 
明治の変革期と同じ、変化の時代を迎えた現在、個人一人では、偉大な先人・南方熊楠のような功績は残せないですが、“遺跡のお手入れ”に参加する人が増え、思いが共有され、活動が広がることが、大きな力となり、後世に知恵と歴史と自然を残すことにつながると思います。

個人的な人生の転換期に、このような活動に出会うことができ、毎回参加するのを楽しみにしているのですが、その楽しみの一つが人との出会いです。初めて会う人がほとんどで、おそらく参加への思いも違い、年齢もバラバラで職業も役職もよくわからないまま、遺跡のお掃除をして、話をしていくのですが、出会う皆さんに共通して感じるのは、自分の心に正直で、一所懸命、そして楽しんで今を生きている人が多いというところです。
 
時代が大きく変わるという面白い時代に生まれ、新しい時代・世界の形成に向けた動きの一つであろう、“遺跡のお手入れ”のような活動に参加でき、多くの方と出会えることは、喜びに堪えません。
ここで繋がる縁が結われ、円となり、その輪がより一層大きな和となることを願います。
そして、このような場を提供頂いた徳積財団及び関係者の皆様に改めて感謝申し上げます。

「守静坊と枝垂れ桜の持つ力」 -芦刈純

2023/07/07

2023年の春、守静坊の枝垂れ桜が満開を迎える頃、私は守静坊に滞在させて頂き、枝垂れ桜の精神を音と映像に変換していました。また、仙人苦楽部で講演や演奏をさせて頂きました。

その時に作成した枝垂れ桜の映像はこちらから御覧になることができます。

守静坊の枝垂れ桜は様々な「水」の力を持つ偉大な巨樹に感じていました。特に、葉桜になってきた頃、夕日によって薄紫と薄緑と輝く枝垂れ桜の光景は、かつて経験したことのない「水」の心を自分に教えてくれていました。

また、守静坊という宿坊は名前の通り「静寂を守る力」を持っています。自分の心の動き方が普段と異なり、自ずと「静寂を守る」ような行動をより促されていました。例えば、音楽など流さずに過ごしたくなりますし、演奏する時であっても、より静かな音を奏でたくなるといった形です。

「静寂」の喜びという心は確かにあって、守静坊にいるとその心を感じやすくなります。それは穏やかな「水」の精神の心であって、人間に「深み」をもたらす心であり、真実を見定めること促す心であり、非常に重要な心です。荒れ狂う海や川とは違って、非常に流れの穏やかな川や湖のような「水」の心とも言えます。

守静坊という場所の持つ力と枝垂れ桜の持つ力が重なり合い、また、それぞれの季節の中でその力自体が変化しながら、様々な「静寂」の「水」の心をこの宿坊は教えてくれるのだろうと思っています。だからこそ、アーティストが守静坊に滞在するなら、そういった力がインスピレーションとなり、作品が生まれてくると思います。

本来、アーティストはこの世に既に存在している素晴らしい力を人々に伝える仲介者のようなものだと思います。そういう意味で考えた時、守静坊程にその仲介を素晴らしい形で支えてくれる場所は大変貴重ですし、そういったことを滞在中に体感していました。

守静坊が我々に与える「静寂の水」の力は、我々日本人が見失いがちでありながら、我々日本人にとって非常に理想的な心だと思います。そういった力を日本人が思い出していくためにも、守静坊がいい形で活用されていくことを切に願っています。

私が思う守静坊の理想についてはこちらの動画でも伝えていますので、もし御興味持って下さる方は御覧下さい。

「調和の体感」-砂野愛子

2023/07/07

4年前のちょうど同じ頃
聴福庵に宿泊させていただいた縁から
今回仙人苦楽部 第5回 「いのちの音を観る」の体験(和楽音楽編)に
初めて参加させていただきました

Liveが始まり
場所によって変化する音の反響
自然の美しい風景・木々の揺れるリズム・草刈りの音や鳥の声・けんちん汁の香り

なぜかそれらが今井さんのピアノとJJが吹くトロンボーン2人の奏でる音に連動してるように見えてきて…

音楽のライブで五感で感じる全てが調和してることに目を向けたられたはじめての体験でした

しばらくすると
自然と身体がその調和に参加したくてムズムズ動き出してきてしまったんです
(そんなことは初めてです)

チーンとトライアングルの音が新たに加わったのを聞き逃さず
即座に楽器が沢山置いてある和室に移動

気づいたら小さなシンバルのような不思議な楽器を手にしていました

それなのにそこで葛藤が…
即興の演奏など未体験のワタシにとっては

身体は音に合わせたくてムズムズしていても

今、音を出していいのだろうか?
せっかくのリズムを邪魔してしまうのではないだろうか?

と色々考えてしまって躊躇してしまうのです

それでも最後には衝動に委ねて
ここ!と感じた瞬間に思い切って
音を鳴らしてみました

その瞬間

チーンと響く、自分が鳴らした音と一緒に
身体中の毛穴から何かが広がっていきました

嬉しい
気持ちいい
ありがとう
幸せ

ひとつの言葉にするのは難しい
喜び、みたいな感覚でした

あとはもう身体の気持ちよさに
耳を澄ませながら音を鳴らして身体を揺らして調和の一部に溶け込む感覚を楽しみました

最後には参加者さん全員が様々な楽器を手に演奏に思い思いに加わり
ワタシ達人間もその調和の一員となりました

元々あったかい雰囲気のその場の空気が
より一体感を持った感覚です

その後はけんちん汁をいただいたり

坐禅をしたりみなさんと交流させていただきました

初めましての方々ばかりなのに
なんだかそこにいる全員への親しみが増してて不思議

山に登りに行った男性陣を待つ間

女性陣は和楽の庭に自生していたフキの皮剥き作業を土間でおしゃべりしながら楽しみました

それはまるで結の繋がりがある昔の村人同士の生活を思い出すような??そんな感覚でした

それぞれが本来の位置に違和感なく収まっていること
そしてそれぞれが自然に活かし合えている
それが調和なんだな、という体感を

あの空間にいた全部で感じることができた貴重な体験でした

その体感を日常で活かすことで自分の生き方が真っ直ぐに整ってきているのを感じてます

本当にありがとうございました

「豊かさの最先端、居場所や自分らしさの仕合わせ」-中村義之

2023/07/07

「暮らし」にかける時間が長いほど幸せを感じる。合理性を追求した会社経営をしていたかつての自分が聞いたら耳を疑うような逆説的なコンセプトだ。しかし、体調を崩すまで働いて、生き方を見直した今だからこそ、なんら逆説的ではなく、とても本質的なありように思える。

昨年末、徳積財団の野見山広明さんにお招きいただいて、初めて聴福庵を訪れた。初訪問にもかかわらず、「ただいま」とでも言いたくなるような懐かしさを覚える家の佇まい。人の暮らしの営みが長年に渡り蓄積してきたことを感じさせる落ち着きある空間。ホッとするような安心感が、「そと」から「うち」に入ったことを実感させる。それらのいくつもの要素が渾然一体となって緻密な織物のような穏やかな秩序を成立させている。

まるで神社かお寺にいるみたいだ。それが私の率直な感想だった。年月を経ることでしか生み出せないもの。時間の魔法とでも言おうか。後日参加した聴福庵での仙人クラブのイベントでは、参加者皆さん朗らかな笑顔で、リラックスした自然体で過ごされているようにお見受けした。この場で生みだされる体験や出会いには本質が宿るに違いない。

聴福庵での私の体験のハイライトは、年末の煤払いだ。年の瀬の聴福庵の台所には、至る所に煤がたまっていた。この煤の蓄積の分、人の営みがそこにあった。カマドはその都度、火を宿し、温かい熱を提供してきた。多くの同世代と同じく、私にはカマドがある家で暮らした経験がない。現代的な住居の掃除であれば、塵や埃を掃除機で吸引して終わりである。しかし、煤は中々落ちない。雑巾を濡らして拭く。すぐに真っ黒になる。洗って、また拭く。その繰り返し。最初は途方もない作業のように思えたが、気づけば、雑巾掛けに没頭していた。

聴福庵での体験以前、掃除が好きかを問われたら、好きでも嫌いでもないと答えただろう。あるいは、好きでも嫌いでもないが、掃除した後に綺麗になるのは心地よいという回答だろうか。聴福庵での煤払い体験を経て、その意識が一変した。掃除の結果だけでなく、掃除という行為そのものが好きになった。心を込めて、モノを拭く。その何とも言えない幸福感。感謝を込めて、モノを磨く。自分自身を磨いているような実感を伴う清々しさ。そんな行為が、とても豊かで、充足感に満たされる。

煤払いを終えると、カマドを中心としたその空間はとても喜んでいるように見えた。とても輝いているように見えた。ただの自分の心の反映かもしれない。どちらでもいい。これこそが地に足の着いた、人間らしい豊かな営みだという実感がそこにあった。その実感を共有できる仲間と共に、談笑しながら楽しい時間を過ごせたことも、心の豊かさを増幅させた。

豊かさとは一体何だろう。合理性や経済性を追求した「現代的」な生活の先にある未来に、聴福庵での体験に象徴される人間らしさ・自分らしさを実感する「暮らし」が失われてしまうのであれば、私たちは立ち止まって再考する必要がありそうだ。工場で大量生産されたモノに囲まれる生活が、没個性的で代替の効く効率性をもたらすのであれば、そんな生活を送る人もまた、そのような機械性に埋没するように思う。

私たちや未来を生きる子供たちが、安心して自分らしさを発揮できる場をつくるためには、時間をかけてモノやコトと向き合い、丁寧に暮らしを重ねていくことだ。自分が暮らす空間・環境を大切につくっていくことが、そこに集う人々を大切にすることに他ならない。そして、その想いは時間を越えて未来へと継承されていく。聴福庵での体験は、時間と人の営みだけが生み出せる普遍的な豊かさを思い出させてくれた。

「癒されて整う。ぶれない私を作る究極の場」-小田海光

2023/07/07

ワクワク,ゾクゾクする体験「暮らしフルネス浄化と供養コース」を過ごしました。キラキラした宝物のようなひとときは,たった3日という短い時間なのに不思議な威力を人生に放ってくれています。

大好きな友人に誘われて,福岡空港にとりあえず行けばなんとかなると,深夜に到着。
どこへ行くのか、何をするのかもあまりよくわからないままのミステリーツアーのスタート。
仙人のような方がお世話をしてくださるとの事でしたが
お出迎えくださった,野見山さんは仙人というより爽やか癒し系

皆さんの顔がやっとわかるくらいの蝋燭だけの闇の中で、なにやら素晴らしい骨董品のおちょこで日本酒を頂き,自然に深いお話に。
本物のお布団に包まれて眠る心地よさに,
生き返った〜まずは衝撃の夜でした。

朝目覚めるとそこには一つ一つ丁寧に,磨き上げられた建物,そして物たち。妥協を許さないとことん追求された美、センスの良さ、
まさに、この家は生きている,この物たちは命がある,感激して何度も涙がでました。
なんとも言えない興奮は、あれから時がたってもまだ続いています。

人は,素敵な空間,景色,お食事,音楽などで癒されますが,通常は日が経つごとにその感動も薄れます。ですが!!
この場のすごいところは日が経てば経つほど,その感動が都会に戻った日々のなかで、むくむくと蘇り日々の生活にうるおいを与えてくれるところ。まさに野見山マジック!
本物って凄い!

予定には、お手入れとあり、友人たちと、ん?エステ体験?など想像。ですがそれはお役目を終えて煤を被った花台や、器や,花瓶を蜜蝋で磨き上げることで,一同大爆笑!
ですが、このお手入れ体験が、まさに,自分と向き合う禅の世界。捨てられていたような骨董品を磨き上げると,どんどんの本来の美しさが蘇り,まさに命が息をし始めます。どんどんとその物の持つ本来の役割がシンプルに見え始めます。そうしたものを,床の間に飾るのでなく惜しみなく日常に使う。
その体験を通していかに日々の生活の中で,自分らしく無いことをしていたか。自分を磨いていなかったか。ということにふと気づかされました。

日々生きていると,意外と周りの声に振り回される自分がいます。
あの人がこんなふうに言っていた
あの人はこう思うんじゃ無いかな?
あの人と比べて私はとか、
あの人たちは楽しそうにしてるなどなど
気がつくと頭の中は
あの人〜という他者に振り回されています。
究極の癒しとは,周りに振り回されない
ぶれない自分らしさを取り戻すことだと思います。

人があれこれ言っていても
大切なのは,その評価に振り回されることなく
自分自身が会った時に感じる
この人好きかな?この人といると楽しい
これをすると楽しい,ここが好き
それに尽きるのでは無いでしょうか

人の評価を気にしすぎて
本当に自分のやりたいことに勝手にブレーキをかけてしまってるのではないか?
好きな服を着たくても、なんだかちょっとういちゃうかな?と思って,無難なものを着たり
グループで食事にいけば、なんとなくみんなの意見に合わせ,ほんとに食べたいものを食べていなかったり
付き合いで人に会ったり,見栄を張ったり

私がするべきことは
そんなことではなく
私らしく今日を1日過ごすこと
頭の中でゴチャゴチャ考えすぎずに

自分が嬉しい人に会い
自分が嬉しい場所に行く
自分が嬉しい事をする。
そうすることにより,本当の自分の役割が見えてきます

空海さまは、
自宝を知らず狂迷を覚とおもえり
愚にあらずして何ぞ
というお言葉を残されています。

自分の中の宝に気が付かず迷い悩むほど愚かなものはない。

野見山さんの創造する場は、そんな自分の中の宝物をしっかりと見つけることのできる空間です。
時折,訪れて,自分の軸をしっかり整えたい
心の喜びを取り戻す空間です

「野見山式古民家蘇生の豊かさの本質」 -佐野典久

2023/07/07

本職は保育関係だというのにも関わらず、
古民家の蘇生を手掛ける「野見山広明」という人間がいる。
手がけた古民家蘇生の数、畳で携わらせていただいただけでも、6.7軒といったところだろうか。
その蘇生は本当に見事で、蘇生前は時に獣(アライグマ)が棲みつくほどほったらかしでボロボロ。
再生は不可能ではないか?という建物と呼んで良いのかわからないほどの家も、
本質はしっかり残し、”在り方”に芯を置き、蘇らせる
そう。再生ではなく蘇生なのだ。
今日は畳職人として、その”野見山流”蘇生のことを語らせて頂きたいと思います。

とにかく家の声をきく。
外見、骨組みはボロボロの家。大工さんもサジを投げるほどの状態の家に入り、
柱や建具、床などの声をきく。家が壊さないでくれと語りかけてくるという野見山氏。
そして印象的なのはよく磨く。柱など磨いていると家が喜んでいるのがわかるという。
スピリチュアルな話に聞こえるかもしれないけど、
僕は畳を掃いたり、拭くのが好きなのですが、その時も畳が喜んでいる気がしてるから、
すごくわかる。
そしてそれは素材が自然からなる、ここではあえて”本物”と呼ばせていただくが、
本物でないとその喜びの声は聞こえないから不思議だ。

本物を磨く時間は本当に豊かな時間やパワーをいただいているような気分になるもので、
野見山氏もいろんな人に声をかけて、一緒に磨いたりする時間をとっている。
”磨くワークショップ”なんて聞いたことないですよね。
本物の中で、自分と向き合いながら暮らす。
昨今マインドフルネス、禅などよく耳にするけれど、
日々の中にしっかりと自然や、自分と向き合い、感謝に立ち返る時間を取る。
あえて禅を組まずとも、本物の素材を磨いたり、愛でたりしながら丁寧に暮らしていくこと。
それが暮らしフルネスなのではないだろうか?
現代、畳は大きなミシンのような機械でほぼほぼ縫ってしまえるが、
僕が畳を好きになったきっかけは手縫いだった。
手で一針一針を縫っていると機械でやっていた時には見れなかった景色に出会う。
それは毎日車通勤している道を、時に歩いてみたらこんなお店あったんだ!!と気づく感覚に似てる。
手縫いしている時にワクワクしたり、頬を擦り寄せたくなる畳があって、僕はそれを本物だと言っている。
話を戻すと、そういったものの中で、丁寧に食べ、丁寧に休み、流れる時間を
自然の音に耳を傾けながら暮らすことこそが、自然素材の奥深さに魅了された畳職人としての暮らしフルネスで、
まさに仕合わせな時間なのだと思っています。

野見山流蘇生とは、自然と在る暮らしの豊かを本質とした、教育であり、共育なのだと思います。
現在大量生産、大量消費、利便性など物的社会への違和感を感じながらも、
経済活動を止めるわけにはいかないと、SDGsや脱炭素ビジネスなどいう方向に行こうとしている。
がしかし、本当の原因は、”心を磨く時間の少なさ”にあるのではないでしょうか?
売上や生活費、育児といった重要で緊急なことに忙殺され、
貴重なそれ以外の時間は、スマホやメディアに心奪われる。
重要で緊急な事柄はもちろん逃げてはダメだが、それ以外の時間は
自分と話す。心を磨く。
そんな時間にできたら、
今自分にとって本当に必要なことに気づけるのかもしれません。
そんな時間が、日々の中に自然に在る状態が、
野見山流古民家蘇生からなる”暮らしフルネス”なのではないでしょうか?

「古いものを生かすには」 -岩村宗一郎

2023/07/07

メディアでは、新商品のCMが流れ、技術革新が日々進んでいることを感じます。
古いものは遅れている。若者言葉でいう「ダサい」と言われる言葉が増えてきておりますが、更にその一方で古いものを愛でる方々も増えてきております。
初めて聴福庵の門を叩いた時、その空間づくりに「消費文明に対する抵抗」に心震えました。建築技術、建具、家具、そして暮らしのスタイル。全てにおいて時代に逆行するような伝統へのこだわり。
現在、私達が生きる時代は、消費文明と言われています。冒頭にも触れましたが、新しい物で溢れており、それが更に更新される社会になっています。
消費することの喜びがある中で、消費社会がもたらす不幸にも晒されているようです。
いわゆるスクラップアンドビルドです。
聴福庵では、古いものを古いものとして扱わず、再生と調和を見せる空間を楽しむ。炭鉱で栄えた飯塚市の文化を現代のIT社会で発展させる。今を生きる人々、そしてこれからを創る子ども達に先人の叡智と美意識を継承しながら、新たな試みを提案する。そのような場が聴福庵にはあります。「尊び」を教えてくれる空間。皆様も是非体験しに聴福庵の門を叩いていただければと思います。