「唯一無二の体験」-岡澤隆佑

2024/06/12

初めまして。岡澤隆佑と申します。

2024年の5月末に、1日と短い時間ですが、、徳積カフェでの珈琲焙煎体験と、「BA」でのご飯と「和楽」での木の供養と「蒸し風呂」を案内頂き、イランからの客人と、禅僧とそのお姉さんと、通訳やカメラを撮ってくれた方と、徳積の素敵な皆様と一緒に時間を共にしました。
あくまで、私はこういうスタンスをとって、皆さまにも、こういう視点もあるのかと思えるよう、拙い自己紹介すると、 私はマインドフルネスのアプリの代表として、AI開発やデザインを行っていました。
一方で、マインドフルの何たるかを知らないと作れないと感じたので、スティーブ・ジョブズが禅僧に倣っていたと聞き、たまたまのご縁で、禅僧の方と、福岡は糸島で1年ほど生活を共にしておりました。
その禅の暮らしの中で、今までの「学問や概念としてのマインドフルネス」と、実践に重きをおく「禅」が全然違うじゃないか!知った気になった過去の自分よ、只々座禅しなさいと反省し、
個人的な探究テーマとして「マインドフルネスを超えた何か」を探り、当たりをつけていたキーワードとしては「徳」「暮らし」「場としての何か」「日本らしさとは?」「自然との共生」などにヒントがありそうとアンテナを張っていました。
少しづつ、本を読んだり、人と会う中で、共通して、自然との共生や暮らしって大事だと言っているので、なんかすごそう!と頭では絵に描いた餅を描いているものの、腑におちず、リアリティのない状態でした。
そこで、リアルを探しに、日本の気が高い、徳が高そうな場を巡って、リアルに体感してみようと思ったのがきっかけで、禅僧に相談したところ、今回徳積を訪れる運びとなりました。
あくまで私の今までの経験から色眼鏡を通した形で、徳積の滞在で感じ取ったことをお伝えします。あまり深い意味はないので、さらりと川に浮かべた葉っぱのように流していただければと思います。

徳積の体験を経て、ふと2002年に書かれた村上龍の小説「希望の国のエクソダス」に書かれていた、「何でもあるが、希望はない国、日本」のフレーズと、その希望へのヒントが徳積にはあると、浮かびました。
1995年生まれの私は、Z世代の初めの年で、日本がゆとり教育をやめた年のいわゆる「さとり世代」です。私の周りのの価値観として、 主流メディアがTVからYoutubeに移り変わり「好きなことして生きていく」にあるように、SNSのプロフィール欄には半強制的に何者であるかを公言せざるを得ない承認欲求を掻き立てられる設計にあり、
現実の何者でもないと、虚像のSNSでキラキラした自分とのギャップに悩んでいる人が多いと感じます。
データとしても、若年層のストレスや精神疾患は増加傾向にあります。SNS中毒の見過ぎでメンタル不調になるという研究も報告されています。
スマホで探せば、Amazonでは何でも買えて、欲しい情報は大体あって、モノは豊かでも、 でも、変化の早い世の中で情報の洪水が起き、選択肢がありすぎて希望は見えづらく、ココロは豊かではない。
頭でっかちに意識だけ高まっちゃって、悟った気分になって、
自分の好きなことは?自分は何者なのか?を探しても見つからなくて、ぴえん🥺と私は10代の時思ってました。
現実を充実させようにも、学校の卒業式はコロナで中止になり、仕事の基本はリモートで学べと、そんな時世を過ごしました。
そんな時に、2002年に2020年のことを予言していたかのような自分が体験したことが、希望の国のエクソダスに書いてありました。
そこで私たちの世代の背景に、 「オンラインには、大事なものがあるようで、ないよね」という感覚と、
同時に、「やっぱり、リアルが大事よね」という感覚があります。
例えば、キャンプやサウナが流行っていることや、環境のボランティアや地域創生で、リアリティを得たいと感じる人も増えているように感じます。Z世代は社会貢献の意欲が高いようです。ただ、実践できる場は少ないように思います。実践している場があっても経済合理性が乏しくて、割り切って大企業行くか、それならスタートアップするか!みたいな同世代も周りには多いです。でも、社会貢献はしたい。でも実践の場が少ない。という葛藤もあります。私もそうでした。
徳積の場には、そんな現代人へのヒントがあると直感的に思いました。
それは、徳積の場にいると、「自然とリアルを見つめることができる」ということです。
例えば、イランから来た方がいて、英語で話しており、私はあまり英語が話せないので、異国の にいるような感覚になりつつも、現実では日本風の建物にいるんだよなあとか、
家具一つ景色一つとっても年季の入ったモノから受け取る情報や、来る人々の経験も深いため結構な情報量が曼荼羅のように圧縮されてカオスに存在しており、情報の処理が追いつかず、なにが現実なのか、はたまた夢のような理想の場でもあり、
でも確かにそこには、ゆっくりと流れる豊かな時間があり、リアルに今ここに集中していた。
次第に、言語や、二項対立や、すべてに意味付けして考えることをやめ、
ありのままを受け入れ、自然とリアルを見つめることのできる場。そんな場でした。

また、その後、古民家を再生した場所の木を切るとのことで木の供養を行い、そのど徳積の蒸し風呂、サウナに入らせて頂き、これが言葉にならないのですが、場のエネルギーを感じました。
元々、私がサウナが好きで、生理的に自律神経がととのうのはもちろん、精神的にととのうメカニズムとして、強制的に、熱い!寒い!だけしか考えられなくなり、結果的に今ここに集中することができる、いわゆる瞑想状態を作りやすく、それでストレスも減っているかも。という研究するほど何故かサウナに惹かれているのですが。
日本の風呂の始まりは、蒸し風呂とも言われおり、奈良の大仏の建造の際に、体調不良者が相次ぎ、中国の僧が伝えた唐風呂に入ることで体調が良くなったという中国地方の伝承や、
鎌倉時代の禅寺にも蒸し風呂があり、風呂でのお経もあるそうです。インドの仏教寺院にも蒸し風呂があり、座禅の痛みをほぐしていた文献もあります。
仮説として、瞑想状態と蒸し風呂の類似性があるのではないかと個人的には考えています。また考えてみれば大量の水を沸騰させるより、大気中を温める方が熱効率がいいですし、水も無駄に捨てません。環境にもいいですね。
徐々に、明治以降、西洋化が進み公衆衛生の観点から銭湯ができ、今のお風呂文化になっていきますが、昔の蒸し風呂(サウナ)は非常に理にかなったものでした。環境にも良くて、健康にも良くて、精神的にもいい。
さらに、徳積の蒸し風呂は、全国のサウナを巡ってきましたが、唯一無二でした。 徳積財団のサイトによると、
水はPH9.0を超える地下水をくみ上げ、水素水フィルターを通しています。サウナ室は70年使われてきた巨大な漬物樽を活かし、茶室のようにしました。炭火で4時間熱する岩石は、全国のパワースポットから集めました。そしてサウナ横で育てている日本古来からの薬草(和ハーブ)を使います。
こんなこだわったサウナはないですよね。サウナの本場フィンランド人もびっくりするでしょう。
実際に体験してみて、感じたことは、
蒸し風呂から、昔の人はこうやって身を清めたのかと歴史を感じ、
水風呂から、何千・何万年も前の雨水が循環して硫黄を含んが地下水として、今肌に触れている、まるで地球に包まれるような滑らかな肌触りや、
外気浴から、雨がちょうど上がり晴れ上がった5月の空と心地よい気温、飯塚の景色は大学も見えつつ、湖と日本建築が融合した新旧織りなす景色、以前は見えていなかった、ただそこに咲いている葉っぱが輝いて見え、自然の美しさをギフトしてもらったから、
この自然は2~300年後の次の世代にも見せてあげたいなと、そんな思いが浮かんできました。近年叫ばれる温暖化でこのような原風景が無くならないことを祈ります。精神分析家のエーリッヒ・フロムの提唱したバイオフィリアという、意訳ですが人間は自然を愛しており、生き物に癒されるという本能があるという仮説もあります。確かに言われてみれば自然っていいですよね。
そんな蒸し風呂・サウナがなぜ惹かれるのかと自問自答してみたところ、サウナは五感を開くハードウェアだからかなと思います。正確には言語化できないのですが。
自身でヘルスケアのアプリ開発や心理学、臨床の研究もしましたが、数ある健康器具やウェアラブルデバイスを触ってみても、サウナほど効果をスッキリした実感はありませんでした。さらに即効性もあり、10分サウナ、1分水風呂の合計11分で整うことができる。 自然を美しく見ることができ、音が鮮明に聞こえ、肌の新陳代謝が起こし、ご飯が美味しくなる。木の香りやロウリュで香りを楽しめる。
サウナで五感が開く。
人と人の心の服も脱いで、打ち解ける。
しかも、気持ちいい。
人にも環境にもやさしい。
何ということでしょう。私ともなると、つらいときもサウナに行って寝ればなんとかなると思えて、なにやっても大安心という、生きる希望に満ち溢れてきます。
徳積みの場から、ふと頭に浮かんだ、希望だけがない国、日本と描かれた村上龍の小説「希望の国のエクソダス」ですが、
そもそもエクソダスとは、旧約聖書の『創世記』後、モーセが虐げられていたユダヤ人を率いてエジプトから脱する物語を中心に描かれているそうです。
ご一緒したイランの方は、イランイラク戦争のときに13歳でアメリカに1人で移住したそうです。
国を脱して、一つの身で、弁護士になり独立し今では移民などを支援したり、大学の臨時講師をつとめて、身を立てて、結果的に現在目に見えない物を大切にし、その一環で日本のお寺などを回っていたそうです。
今回の体験では、イランと日本、国、言語、宗教、文化、現代人的思考を「脱して」、 徳積みの、歴史、世代、ビジネス的な損得、一方向的なおもてなしを「脱して」、
この場限りの皆様で一期一会の体験をする、
それらが無理なく自然と今ここのリアルを見つめることができてしまう、徳積の体験となりました。
今回のおもてなしなしてくれた徳積の皆さま、繋いで頂いたご縁、先祖から受け継がれてきた土地や文化や工芸、自然の循環、生きとし生けるものに感謝です。

守静坊の夏至祭

2024/06/12

今年もこの守静坊で長い期間をかけて行われていた鏡秘儀神事として夏至祭を実施します。

夏至というのは、太陽が出ている時間が1年のうちもっとも長い一日になります。つまり太陽の力がもっとも高い日とも言えます。そして「夏に至る」という言葉通りにこの日を境に少しずつ日が短くなります。この夏至の太陽の光を、守静坊に伝来している鏡に受けてその反射したものを浴びることで夏至禊を行うというものです。

特に英彦山から眺める夕陽は、まるで西方浄土のようであり神々しく清々しい澄んだ光が差し込んできます。その光を神鏡にあてると、「光の道」が宿坊の祭壇から外に向かって一直線に顕れます。

その光の美しさややさしさは言葉で表すことができません。まるで、極楽浄土と結ばれご先祖様があの世からこちらに帰ってこられたかのような安堵感と懐かしさを感じます。

また神鏡というものは元々は太陽を鏡で指していると言われています。つまり太陽と鏡は対を現わしているということです。鏡で日の光を反射した際、それを正面から見ると太陽のように輝いて見えます。

太陽の神様を崇め祀るので、太陽を象徴する鏡が神鏡になって今に伝承しています。『日本書紀』には天照大神(アマテラスオオミカミ)が孫である瓊瓊杵尊 (ニニギノミコト)に、「これらの鏡を私の御魂として、拝するように常に奉りなさい」と記述されています。この体験そのものを、英彦山という場所でまた伝来してきた守静坊とその神鏡で体験するという無二の貴重な機会になります。

他にも法螺貝をはじめ音のご奉納や神事後の直会なども予定しています。

平日のためお仕事でお忙しい方も多いことと思いますが、自然に合わせた関係で日程も変えることができませんので、もしもご予定が調整できるようでしたら共に夏至祭と夏至禊の鏡秘儀神事にご参加いただけますと幸甚です。

夏至の奇跡に心から楽しみにしています。

◆開催日時:2024年6月21日金曜日(夏至)16時30分より
◆場所:英彦山 守静坊 福岡県添田町英彦山731
◆参加費:徳積循環経済を動かすために「徳積帳」より活動のお布施、喜捨をいただきます。
おひとりさま、3,000円よりトークンに転換できます。事前にお申込をしていただき、徳積帳から登録をお願いします。
※徳積帳 https://tokutsumicho.org/
(初めての方、やり方が分からない方は、当日現地でも対応させて頂きます。)
◆申し込み:前日2024年6月20日(木)までに下記公式LINEか アドレスよりお願いします。
友だち追加
メール:info@tokutsumi.or.jp
※上記より申し込みが難しい場合は、お電話(0948-52-3221)にてお知らせください。