「静けさに守られた、身心の調う場所 」-星覚

守静坊を初めて訪れたのは、2022年春のことでした。人が足を踏み入れることをためらうほど朽ち果てていたこの宿坊の蘇生を試みていた広明さん(親しみを込めて野見山広明氏をこのように呼ばせてもらいます)と不思議なご縁があり、茅葺の張り替え行持にご招待頂いたためです。その時の守静坊は回収中ということもあり屋根も建具もなく、家の周りは落ち葉や枯れ枝が堆積し、人どころか野生動物も近寄らないのではと感じたものでした。
それからありがたいことにほぼ毎月の頻度で英彦山にご招待頂き、徳積財団の皆様がその場を再生していく過程を拝見してきました。否、拝見というよりも、再生にご一緒させてもらった、というべきでしょう。
言葉ではなく、行為を共にする。
徳積財団の活動の特筆すべき点は、ここにあります。
徳と聞いて多くの人は「徳は言葉にするものではなく、人知れず実践するもの」であると思い浮かべるのではないでしょうか。久しく徳を懐かしんでいる徳積財団の方々がそれを熟慮しないはずはありません。それでも、そのような反論を覚悟してあえて、言葉に出して徳を再興しようとしているのはなぜでしょうか。
一度守静坊を拝見し、茅葺を人たば担いだだけではよくわからなかった疑問は、こうして守静坊に通っているうちに少しずつ解けていきました。
広明さんは古いものを磨き清めること、そうして新たに澄んだ空気を人と共にすることが大好きなのです。禅寺ではこのような姿勢を作務と言います。つまり広明さんは作務が大好きなのです。
毎月直観に従ってご縁のある場所を訪ねる道中に、本来自分と直接関係のない、例えば誰も足を踏み入れていなかったような道すがらの神社、祠、お地蔵さんなどで足を止め、そこで掃除を始める、時間が許す限り延々と手作業で清め、磨き続け、誰にお礼を言われることもなく、神仏に手を合わせ、静かに去っていくのです。
言葉に出すべきでない徳を前面に出して活動することは、控えめに言っても無茶です。よほどの平衡感覚がなければ独善的になってしまうでしょう。しかし徳積の皆様の日々の暮らしを見ているから、広明さんらの試みていることが針の穴を通すような可能性に賭ける本気の活動であることが伝わり、応援したくなるのです。
広明さんは実際に徳の世界とは正反対のようにも思える会社経営の分野で子供達のための幼児教育に関わる会社を20年以上経営して利益を出しながら、一方で利益よりも徳を積む行為を優先させる活動を自ら実践し、社員一人一人が心を和してそれに取り組んでいます。ほとんどの人にはそれを語ることさえしませんが、この結の徳積は昨日今日、机上で思いついて掲げ始めた言葉ではないのです。
まずは一緒に「自分とは関係ない場所」を掃除し、床を磨いてみましょう。一緒に先人を偲び、沿道を掃き清め、床や壁を磨き、石や木にお参りすると、一歩一歩静けさが深まっていることを感じます。すると本来「自分とは関係ない場所」はどこにもないと、私たちが静けさを守っているのではなく、静けさに私たちが守られていると感じられてくるのです。
誰のおかげ、何の見返り、ということもなく「ただそこにいる」ことができる場は価値の交換と所有を前提とした資本主義が生活の隅々まで浸透している昨今では貴重です。
守静坊はそのようなご縁に導かれた人の見返りのない想いによって守られています。それゆえに、人はもちろん、動植物もバクテリアだって、そこにいる全ての存在の静けさが守られる、稀有な場なのです。でも人間って、私たちの身体って本来はそういったご縁の集合体ですよね。だからこそ、守静坊は安心するのかもしれません。
こういった場が伝承されていくのは、これを見返りなく読んでくださっている皆様一人一人の存在のおかげです。私はこの奇跡こそ徳と言えると感じます。最後まで読んで下さりありがとうございます。今後もこの場が静けさをいつまでも携えていけるよう、謹んでお祈り申し上げます。
九拝

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